初期の作品は、中国古陶磁に倣った、技巧的で華麗な作品となっています。
個展デビュー当時より、高い技術力と完成度が評価され、絶賛されることとなります。
(左)青瓷鱔血文金魚
【せいじぜんけつもんきんぎょ】
大正11(1922)年頃(32歳)
(右)三彩果虫陶筥
【さんさいかちゅうとうばこ】
大正11(1922)年頃(32歳)
大正末期より「民藝運動」の中心メンバーとしても活躍する河井寬次郎は、人気を博した中国古陶磁のスタイルを捨て、
「用の美」を意識した暮らしの中に溶け込む品々を生み出します。
(左上)土瓶と各種湯碗
(左下)各種小皿
昭和17(1942)年頃(52歳)
(右)流し描壷
【ながしがきつぼ】
昭和5(1930)年頃(40歳)
第二次世界大戦中は窯に火が入れられず作陶が中断しますが、戦後、仕事が再開されると、河井の作風はまた徐々に変化していきます。
「用」の枠をも越え、エネルギッシュで生命感溢れる力強い作風となり、不思議な造形世界へと向かいます。
(左)碧釉扁壷
【へきゆうへんこ】
昭和39(1964)年頃(74歳)
(右)黄釉筒描壷文隅切鉢
【きぐすりつつがきつぼもんすみきりはち】
昭和28(1953)年頃(63歳)
戦後の河井寬次郎は、木彫にも取り組みます。60歳~70歳にかけてのほぼ10年間、陶器と並行して生み出された木彫作品は、その数100点近くに及びます。手や人物、動物などをモチーフにした木彫像から始まり、後半は、顔をモチーフにした具象、抽象の木彫面へと移行します。これらの木彫は、ほとんど全て手元に残しましたので、当館においてご覧いただけます。
(左)木彫面
昭和34(1959)年頃(69歳)
(右)木彫像
昭和30(1955)年頃(65歳)
河井寬次郎の創作への意欲は、素材を土から木へ、そして金属へと向かわせます。
喫煙家の河井は、自らのキセルを20本以上デザインし、実際に使用し、楽しみました。
真鍮キセル
昭和30~35(1955~1960)年頃